
1998年2月 日本醸造協会誌
白木善次(よしじ) 白木恒助商店 六代目蔵元
昭和13年生まれ 昭和40年代から蔵の個性を出すため、独自の長期熟成古酒造りに取り組んできた。
この論文は、今から15年ほど前に古酒への取り組みをあるがままに語ったものです。
1998年2月 日本醸造協会誌
白木善次(よしじ) 白木恒助商店 六代目蔵元
昭和13年生まれ 昭和40年代から蔵の個性を出すため、独自の長期熟成古酒造りに取り組んできた。
この論文は、今から15年ほど前に古酒への取り組みをあるがままに語ったものです。
本誌より「我が社の熟成酒造り・長期熟成酒・古酒について」という題で投稿を依頼された。本誌に投稿することは、少々分に過ぎたる事とは思いながら、熟成された清酒を考えてみると、社会的にも認知されつつあり、愛好者も若い年代の人たちも含め、確実に増えてきているように思う。そのような現状なので、筆をとった次第である。小生がここで報告できるの内容は、体験談であり、学問的な裏付けなどはない。約三十年の間に出会った、主な現象を五感でとらえたままに書きとめてみたに過ぎない。気楽にご一読していただく程度のものであることをお断りしておきたい。
なお、現状では今だ「熟成酒」と「古酒」の区別はできていない。文中では「長期熟成酒」と「古酒」の使い方が混同しているのでお許し願いたい。
近頃よく、なぜ古酒造りを始めたのか? というご質問を受ける。そこで当時、(昭和三十年代後半)の小社の状況を振り返ってみたい。 製造数量は200kl~230klであり、課税移出約200klを半径20km位の狭い商圏で商っていて、その残りを未納税移出していた。 ところが昭和37年の酒税の変更により、準一級酒の一級酒への格上げ政策の結果、大手メーカーのテレビコマーシャルを伴う、雪崩的な進出に会い、地域的な銘柄の地酒メーカーは、経済的にも、心理的にも大きなダメージを受けた。小社も残念ながらその例にもれず、課税移出も下降の一途を辿っていた。そのような状態の中で、どうして社業の継続を図るかということを考えたのである。当時の財政当局は、メーカーが消費者に対し直接販売することを、強い行政指導の下で事実上禁止状態としていた。また級別審査により、清酒の酒質は限りなく平均化され、当時の所得の伸びによる一級酒へのシフト傾向とあいまって、地方銘柄酒の生きる道は閉ざされた状態であった。そんな中で商品の差別化、個性化を図らざるを得なかったということである。
昭和40年代の初期当時、吟醸酒は今だ、技術向上のためのものであり、今日のようなスポットライトの当たる状態ではなく、むしろ揺籃(ようらん)期といえる頃であったと思う。小社も毎年吟醸酒造りには取り組んでいた。 現在も当時の吟醸酒(昭和46年~56年)が熟成中であるが、小生の当時の判断では、すでに吟醸酒は一定の判断が定まっていて、自分自身の好みもあり、差別化商品とは考えなかったと思う。そんな折、業界の先輩との会話から、清酒の熟成についての、興味あるお話しを聞いていたし、小社の蔵の中に積んであった、黄色みを帯びた、ヒネ香のある吟醸酒が結構旨いという事も知っていた。そのような訳で、生き残りの一つの方法として古酒への挑戦を始めたと思い起こしている。
現在、いろいろのタイプの古酒を在庫しているが、当時これらの多様な酒質の仕込みをしたのは、技術的な考えとか、データに基づいたとか、または何らかの予見を立てたとかいうような事は、全くなかった。当時の少ない知識から、いろいろな酒質のものを造って貯蔵してみれば、時間の経過により、「画然」たる特徴のある品質のものが現れてくればよい、と考えただけのことであった。昭和40年代の中ごろより、吟醸酒、純米酒、アルコール添加酒等を日本酒度で差をつけながら貯蔵を開始していった。糖類添加の酒質のものを加えなかったのは、当時余りにも一般的であったことへの差別意識が働いたのではないかと思われる。この時点で、もう一つ考えたのは、貯蔵温度であるが、初期の段階であり、蔵の中で比較的涼しい場所を選び、ごく当たり前に琺瑯(ほうろう)タンクで貯蔵を始めた。原料は精米歩合70%であり、米は地米、主に「日本晴」で現在もそれを踏襲している。
熟成を開始して数年間、始めから心配していた火落ちが現実と異なり、アルコール17%台の甘口系の純米酒に混濁が発生した。そこで経験したことは、内容分の豊富な系統の酒質のものは、アルコール添加酒の比較的度数の高いものに比べて、容易に混濁するということであった。 5~6年を経過すると、成分の豊富な酒質(例えば、純米甘口系)ほど、その熟成の度合いが進んでくる事がわかった。すなわち、着色の濃淡、色調、また発生するオリの寡多、香りの違いなどである。これらの違いは、初めの目論見であった「画然たる」特徴のある酒が生まれてくることを予感できるものであった。その頃のきき酒で、当時の杜氏であった、外池外司氏が、満7年の純米酒を飲みながら「素晴らしい酒になりましたね。」と、笑顔で喜んでくれた。容易に熟成酒を誉めなかった外池杜氏の最初のお墨付きであったことを、今年も二人で語り合った。
小社では現在、十年以上経過した酒を、タンクと、1.8?瓶に瓶詰めにしたものの両方で熟成している。瓶詰めにしたのは、小生なりの理由があった。一つには欠減の問題である。その数量については、タンクの大きさや、密閉の度合いにより一概には云えないが、5000?~7000?級の琺瑯、開放タンクで50?位の程度であった。予想よりも、いくらか少なかったなと感じた記憶が今も残る。またもう一つの理由に過熟の心配があった。酒の量と表面積のことを考えて、特に理論的な裏付けのないまま、火入れ瓶詰めを行なった。この際、火入れにするか、無火入れににするかは、後になって重要な問題であることがわかった。すなわち世界的に、熟成した酒の高い評価の一つの要因として、その舌ざわりのまろやかさが挙げられる。
このまろやかさは、アルコールと水の分子会合によるものだと言われている。長い時間をかけて形成された分子会合(クラスター)は加熱することにより壊れてしまうと思われる。事実、十年経過の酒の、火入れ前と火入れ後のきき酒評価は、火入れ後の酒の味のまとまりが悪いということで一致した。したがって近い将来に出荷する酒の瓶詰めは、火落ちの問題とのからみもあり、加熱、非加熱の条件を考えながら、その時期を慎重に選ばなければならない。結果論ではあるが、タンクで充分に熟成したものを加熱瓶詰めをし、さらに数年の熟成期間をとる小社の方法は適切であったと思う。
このビンへの詰め替え作業に際し、オリの発生に出会った。内容成分の多いものほど、オリの発生量が多く、内容成分の少ないものは、沈殿量が少ないという事が、ほとんど例外なく起こっていた。このオリは、吟醸系のものを除いて、褐色ないしは黒褐色となり、タンク底部に貼りついたように沈殿していた。この沈殿したものの、ろ過を試みたが、ろ紙を通過せず、その上で乾燥して薄板状となり、ろ過は困難である事がわかった。このオリは高分子の凝固物であると思われる。数年前、東京農業大学の研究室の分析では、沈殿物の全窒素量は、上澄部分のそれの20倍以上であったと伺っている。 酒質にもよるが、約10年前後の熟成期間を経て、酒の味わいが飛躍的に軽くなり、品格を備えた古酒に脱皮する時期がある。我々(長期熟成酒研究会)はこの現象を「解脱」と呼んでいるが、その時期は、オリの沈殿の終了と時を同じくするのではないかと、体験的に信じている。オリの成分に窒素分が多いということは、原料の米の特性を充分に溶かし込んだ後に「時間」によって研ぎすました、と言えると思う。外部からの来訪者を歓迎してのきき酒においても、新酒時にその酒が持っていた成分または酒質別に、はっきりとした着色による識別ができるという評価を得た。
吟醸系のものは、薄い褐色を帯びた黄緑色、アル添酒、純米酒では、赤みがかった褐色で、いずれも経過年数順に色は濃くなっていくことが、はっきりとしている。中には、ワインの世界でも貴重がられるという「ローマ古金の色」が出ていると言う評価も頂いた。オリが十分に沈殿しきったものは、極めて透明度が高く、輝くような光沢があり、素晴らしい色調といえる。ワイン等は、その美しい色が、味わいとともに重要な要素となっているのに比べ、従来、酒の楽しみの中から「色」の美しさを全く無視してきた清酒にとって、これはたいへん素晴らしい事ではないかと思う。
これらの色は、主にカラメル系色素や、メイラード反応により生ずるメラノイジン、更にはペプタイド類などであり、各々が苦味などの呈味成分であって、従来の清酒成分としては否定的なものであったが、熟成の香味成分としては重要な役割を果たしているといわれる。メラノイジンやペプタイドは、近頃、機能食品としても有効な成分として注目されている。
味の変化については、吟醸系のものは、依然としてその特徴を残しているということが、多くの人のきき酒の評価であった。経過年数に差があっても、その変化の幅が狭いという共通の評価があった。アル添酒、純米酒のものは、それらの成分の豊富なものほど、味は濃醇であり、かつ複雑で、苦味があったり、キャラメルのような甘味があったりして、その味が多様で変化に富んでいて楽しいという評価を得た。熟成の結果生まれてくる重要な香りの成分として、ソトロンと呼ばれる物質があるといわれている。この物質は、その濃度により、老酒的であったり、果物や蜂蜜の香りであったりする。これらの香りは酒中の糖分濃度に起因するといわれるので、新酒時の酒質により、種々の香りを持つ熟成酒が誕生することになる。
最初の熟成開始から20数年経過した現在、10年熟成過程の時点と比べて、香味、色調等に基本的には大きな変化はないと思う。熟成期間の長期化と共に、各々の酒の個性は、その度合いを深めているが、高精白タイプのもの(たくさん米を削ったもの)と、そうでないものの熟成度合いは、より大きく開いてきているのが特徴的である。一部の濃醇な純米酒は一見したところ、醤油のような黒い色となっているが、明るい光線に透かして見ると、美しい濃いルビー色を呈している。この様に、初期の目的であった「画然たる差別化」の目標は達せられたと確信するに至った。今から4年ほど前、フランスのワインメーカーでの食事で、小生の持参した赤い色の古酒に対し、起立、乾杯の儀礼を頂き、酒に賞賛の言葉を頂いたが、これは小生の古酒造りに自信を与えてくれた。
20年以上の熟成期間を経た今日の関心事は、果たしてこれらの酒が、いつごろまでよい状態でいられるかという酒の寿命に関するものである。それは、どのような成分を持った酒がもっと長い熟成に耐えられるかということでもある。造り手としても、重大なことであることは当然であるが、清酒の熟成に関心を持っておられる先生方にとっても興味のあることだという。幅広く世界の古酒の飲酒体験をお持ちの方々のご意見をぜひ聞かせて頂いて参考にすべきであると思っている。
ここ数年の間に、小生が幸いにも、機会に恵まれて飲ませて頂いた熟成酒は、1965年のマディラワイン、1920年~1950年の貴腐ワイン数点、また清酒では、昭和17年製造の吟醸酒(1.8?瓶詰め・コルク栓、未開封)などである。そのいずれもが、開封と同時に馥郁(ふくいく)として、香りが周囲に充満していた。味わいも未だしっかりとしたものであった。昭和12年、17頃の清酒は純米酒であったと推察されるが、その生命力に感じ入った次第であった。そんな体験の上で、小社の20年前後の古酒をきいてみたが、まだ充分に酒の力強さを感じとっている。
話が前後するが、小社では、現在もいろいろな酒質のものを造り続けている。それは、いろいろ特徴のある酒を持つことにより、比較的変動の少ない酒質の商品を継続して出荷できるからである。フランスの高級ブランデーも、スタンダード的なものに、長期熟成したものをブレンドすることにより、品質の保持と品格を保っているようである。
以上、経年的に経験したことを述べさせて頂いた。次に、小生が思っている古酒に関する雑感を述べさせて頂く。
小生が長い間、なんとか手さぐりで熟成という仕事に取り組んでこれたのは、いろいろの方々の恩恵によるものであった。京都の名刹の管長様からの「七言絶句」や、地元銀行の頭取様からの掛け軸。いずれも8年以上の熟成酒に対するお誉めのものであった。とくに12年前に発足した「長期熟成酒研究会」における勉強で、その後の熟成酒に対する考え方に、大きな影響を受けた。
さて、「酒を熟成させることは奇をてらった行為であり、清酒の品格を下げ、何の意味があるのか」という方々がおられる。そんな方々には「日本には長い間古酒が飲まれていたという立派な歴史があり、これらは民族の誇りともいえます。」と答えている。更にここ100年ないし200年の間、中断していただけのことであり、現在は復活の途上にあるとお答えしている。
それでは何故、古酒が長い歴史の流れの中から消えていったのだろうという疑問が当然起こってきた。
鎌倉時代、日蓮上人様のお手紙の中に「人の血を絞れるが如き古酒・・・」という記述のあることは、坂口謹一郎先生の御著書の中に書かれていて、皆様ご承知のことである。また1690年代、即ち元禄時代に著された「本朝食鑑」の中には、人の身を京都の町になぞらえて、「新酒で酔いたる時は、上賀茂明神の祭りの如く、上京だけ賑わう。古酒で酔いたる時は、祇園祭りのごとく上京下京共に賑わう。」と書かれている。このことは、古酒が広く飲まれていたことを物語っている。
鎌倉時代から、江戸、元禄の時代まで、歴史上証拠のある期間だけでも、約500年余りの流れがあり、文化として定着していたと云える。それが無くなった理由に日本人の嗜好の変化が万一あったとすれば、小さな地酒メーカーにとっては、余りに無謀な挑戦であったことになり、死命を制することになった訳である。しかしながら前述の如く、京都の和尚様や、取引銀行の頭取様のお誉めの一幅は、日本酒の古酒の持味が決して消え去って行ったものではなく、忘れられたに過ぎないということを図らずも教えて頂いたことになり、心強く思った次第である。
酒取引は、飲み手の需要がなければ、造り手が生産できないが、逆に造り手の方が何らかの条件により造ることができなければ、、市場から消え去っていくのではないかと思う。元禄時代上方から江戸に下る樽回船の発達で、それまで甕(かめ)によって支えられていたと思われる酒の製造や輸送が、どんどん樽や桶の木製容器に変わっていったのではないだろうか。これは明らかに近代社会の大量生産、大量輸送の始まりの時期といえるのではないだろうか。木製容器は酒造りにとって、火落ちの危険の増大と、樽の材料成分による変化によって、古酒造りにとって悪条件が重なったのではないだろうか。その他の要因として、明治以降の造石制度は、長い年月を要する古酒造りには、納税の制約からほとんど経済的に成り立たなかったのであろうと思われる。誠に偏見と独断の考察ではあるが、この考察を是とすれば、現在は酒の熟成をするという仕事には容器の問題にしても税制ならびに食糧問題にしても、熟成古酒の復活には、又とない状況にあると云えないだろうか。
一口に長期熟成酒・古酒といってもそこには大きく分けて2つの流れがあると思う。ひとつめのタイプのものは、生まれ持った特徴を持続しながら、熟成によるまろやかさや、味の調和を求めるものであり、我々の研究会では淡熟タイプと呼んでいるものである。いまひとつは我々が濃熟タイプと呼んでいるもので、生まれ持った特徴を超越した次元の風味に到ることを終局の目的とするものである。
それは各蔵元の方々の選択の問題であるが、この選択の幅の広さは、従来の清酒に全く新しいジャンルを開く可能性があり、現にそのバリエーションの広さは、マニアックな人達の粋を越えて、ゆっくりと、しかし確実に受け入れられ始めている。
古い言葉で「酒屋万流」という言葉がある。近年この言葉は、事実上死語に近いという状態であった。これは近代に於いて、清酒が文化的な要因を殆ど抹殺されてきた不幸な状態であったことの証拠でもある。
熟成酒ないし、古酒は各々の蔵元が「万流」を発揮できる有力な手段であると思う。
小社の行ってきた熟成作業は、初期段階ではいろいろ挑戦したつもりであった。しかし今日20数年間の経験やら、いろいろの先生方の教えを伺っていると、小社の取り組んできた熟成酒・古酒造りはほんの一部分を試行したに過ぎない。小社の熟成酒群の中には、大変お誉めを頂くようなものもあるが、やはり技術、発想の面からも常識の範囲内にとどまったものである。原料の問題についても、また酸化、還元の熟成の問題も、積み残した宿題が一杯あるというのが現状である。ある程度の結果を見ようと思えば、数年以上の時間が必要となるので今すぐどうこうといえるものでもない。
小生の知り合いに山林地主の方がおられるが、昨今の山林不況の中でも営々として事業に打ち込んでおられる。ご承知の様に山林は100年単位のサイクルである。前述の如く、酒の熟成は、即ち時間は、正直にまた正確に進む。
熟成酒の復活はまさに入り口にかかった段階であるが、日本の食の多様化に伴い、幅広いバリエーションの展開が期待できる熟成酒は、将来必ず、必要で欠くべからざる食卓の一員となることを信じている。脈絡のない拙文であり、読みづらい文章であったことをお許し頂きたい。完
弊社では、40年以上前から日本酒の古酒造りに取り組んで参りました。
小さな酒蔵ではありますが、古酒に対する愛情と情熱はどこにも負けないと自負しております。
達磨正宗の古酒を取り扱ってみたいと思われましたら、お気軽にご相談下さい。
一時的ではなく、腰を据えてしっかりと達磨正宗の古酒を理解してお取扱いをして頂ける酒販店様を心よりお待ちしております。
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